たびなかば

on a journey

【中国・重慶】「私は今何を食べているのか?」中国の市場が教えてくれた話

f:id:tabinakaba:20190329133917j:plain

人はこうして生きている

 先日の重慶旅行中に市場で生きた魚を買ったのだが、その時の一件により思い出したことがある。

f:id:tabinakaba:20190329144043j:plain

市場で買った魚は夕飯に

数年前、中国人の生活を体験してみようと、市場で生きた鶏を買うことにした。

店主に「どの鶏がいい?」と聞かれたが、わからないので「どれでもいい」と答えた。「どれでもいい」とたまたま選ばれた鶏は、店主の手から逃げようと羽をバタつかせたが、一瞬のうちに捕まり首を掻っ切られた。

血が抜かれていく鶏を見ていると、自分がそうさせたにも関わらず、懺悔のような気持ちが「ごめんね」という言葉になって繰り返される。その一方で、流れ出る血の鮮やかすぎる赤に驚いていた。

それは、今の今まで鶏の体の中を巡って「生」を維持させていた命の一部だったという事実に加え、私が自分のために1つの命を奪ったという事実も訴えていた。

東京の生活で屠殺の現場を見ることはまずない。スーパーではすでに小分けされた綺麗すぎるお肉が並んでいるし、チキンナゲットは原型すらない。

 

当時、牛丼を食べていて「私は今何を食べているんだろう?」と思うことがあった。

牛丼なのだから当然「牛肉」なのだが、それは牛肉である前に1頭の牛であり、1つの命だったはずだ。

しかし、牛丼のように安く手軽に食べられるファストフードは、いつの間にか私の中で命からほど遠い食べ物になっていた。
仕事で食事の時間がないという言い訳で、パソコンの画面を見ながらハンバーガーをかじったこともある。

冒頭の市場で血と羽を抜かれた鶏を受け取り家へ帰る時、そんな私に襲いかかってきたのは、命に対してあまりに無自覚だった自分への衝撃と失望、恥ずかしさだった。

「こんなにも大事なことを、一体なぜ軽視できていたのだろう」

「自分の『いただきます』には何の意味もなかった」

数年経った今でも、日本では私が生き物を殺してその命を食べて生きているという事実から目を反らすこと、無自覚でいることは簡単にできてしまう。

しかし中国の市場では、その当たり前の事実が今も日常の形で目の前にある。

動物や魚が生きた状態で売られていると、その生き物を殺すのは自分だと明確にわかる。実際に首を切るのは店主でも、それをお願いするのは自分であり、生き物が命を落とす瞬間を目の当たりにするからだ。

中国の市場で肉や魚を買う人は、当然それが1つの命であることを知っている。

衛生的ではないにせよ、このような「命を扱う」場所が身近にあることが、私にはとても価値のあることに思える。

私が住む地では身近にそのような場所がないからこそ、「いただきます」という言葉がまた形骸化してしまわないよう、この感情を忘れずにいようとここに書き残す。

●市場で生きた魚を買った話はここに
journey-to.hatenablog.com